善立寺ホームページ 5分間法話 R⑰ R7,4.20

 木々の芽が燃えいずる好時節を迎えましたね。四囲の山々は萌黄色に染まり、大気も光り薫り、田舎の豊かな自然を謳歌して暮らせている幸せを身に染みて感じているこのころです。朝は裏山からのウグイスの声で目覚める贅沢な日々です。

 萌黄色といえば、寺の境内では、ウコン桜が16日に開花しました。今年の冬は長く、

たびたび大雪に見舞われ、昨年より2週遅れで開花しました。咲きはじめは萌黄色です。満開になると花芯がピンク色になり、やがて花弁全体がピンク色に染まります。このホームペ-ジの数か所に写真を載せていますからご覧ください。盛りを過ぎると花弁が大きく重いので、花吹雪で散ることなく椿の花と同じように地面に落下します。

数珠掛け桜は、目下はつぼみ状態です。開花は27日前後でしょう。この桜も花弁ごとに地面に落下しますので、樹木の周辺は花莚(はなむしろ)を敷いたようになります。画像でご覧ください。

境内には、朱色の木蓮、黄色の2種類の木蓮、こぶし、品種の異なる多くの椿、ハナミズキの花々で彩られますから、辛いことや嫌なこと悲しいことがあっても、慰められ癒されて暮らしています。花のような存在にならなくてはと花から日々教わっていますが、歳をとっても悟りの境地からはほど遠く、愚僧の域からは抜け出せません。

私が30歳頃までは、寺の境内には3本の松の大木と数本の柿の木しかありませんでした。大木の松の木は、落ち葉が年中、屋根に落下、中高生の時代は定期的に屋根に梯子を掛けて登り、瓦の上の松葉掃きや樋の掃除をさせられるのが大きな負担となっていました。いちばん大きな木に雷が落ちて枯れたときは、惜しく思いましたが、掃除の負担が減じたことを嬉しく感じていたほどでした。花木の全くない殺風景な寺でした。

25の歳に寺に帰って教職に就きました。島根県の大根島から定期的に花木の苗を売りにくるおばさんから、給料日ごとに苗を購入して植樹したのが花の寺に繋がりました。春になると心の中にも花が咲くのが楽しみでした。

楽しんでいたのは私だけではありません。数珠掛けサクラが成長してその美しさが新聞で報道されたり口コミで広まりました。想定外であったのは、息子さんや娘さん方が年老いたご両親を観桜に連れてこられたり、高齢者施設の職員の方がマイクロバスで入所者を案内してこられる機会が増え、笑顔の方が境内にあふれるようになりました。こころ優しい方がおられて、多くの人たちの心の中にも花が咲き、その方たちのこころ弾む会話を耳にすると、心の中に喜びが広がりました。

花は無言ですが眺める人を幸せにする力は甚大です。人間の力は花の力には遠く及びません。植樹は自分の癒しのためにしたのが出発点でしたが、花から教わることは多々あります。

 さて、本題に入ります。最初に皆さん方にお尋ねします。

 皆さんは、かつて見知らぬ土地を訪ねられた際、目的地への道がわからず、たいへん困ったという経験をお持ちでしょうか。私が高校に勤めていた前半は、神戸はもとより大阪や東京の大都会に出張する機会がたびたびあり、大きな街中や地下街で迷って、駅員さんやお店の方に何度も何度も道を尋ねたことがあります。時間に余裕があるときや、

「迷い」というものに慣れてくると、街の交差点や地下街の要所と思われるところをしばらくウロウロするわけです。

 なぜかと言うと、そこには、周辺の地図が描かれている案内板があるので、その前に立って目的地への順路を確かめるわけです。「百聞は一見に如かず」とい言葉がありますが、目的地に進む道を探すには一番わかりやすく、よほど困った場合を除き、見知らぬ人に道を尋ねるということをしなくなりました。

 そういう場合、その案内板の中に、絶対に必要な標示、印があるのですが、それは何かご存知でしょうか。

 「東西南北」ではありませんよ。地下街では東西南北の表示があっても、何の役にも立ちません。なんでしょう?。……。

それは、「現在地」の標示なんですね。今、自分が、どこにいるのかというという場所、すなわち、現在地が記されていないと、目的地に向かって進むことはできないのです。自分の現在地を確認するということが必要不可欠な条件です。したがって、案内板には必ず「現在地」と書かれた赤色の文字や標示が大きく描かれているわけです。

自分の生き方について考えるときも、悩んだり苦しんだりするときも、道に迷ったときと同様に、「自分の現在地を知る」ということは非常に大切なことであると私は考えています。

自分の現在地を知るということは、どういうことなのか、お分かりでしょうか。腹が立ったり、悩んだり苦しんだりしているという心の状態は、いわば、自らが置かれている心の現在地が正確に把握できていないという、心の迷いから生じていると言えるのではないかと思っております。

仏教は文字通り、「仏の教え」ですが、仏の教えに導かれると、この私が、「仏になれる教え」です。人間は108の煩悩を抱えて生きていると前回記しましたが、煩悩の根源的なものは「我執」(がしゅう)と言ってよいでしょう。人間は、多かれ少なかれ自分に執着して生きています。自分の考えに捕らわれ、自分が見たもの、聞いたものに捉われて暮らしています。社会も接する人々も、自分の希望も欲望も、願いどおりになれば、苦悩は無くなります。

一例をあげて考えてみましょう。身近なところで、思いどおりにならない人がいて、腹が立ってムシャクシャしているということはありませんか。そんなあなたにお尋ねします。あなたは、人さまから嫌われることなどしていない常識人で、腹を立てられることなどしていませんか。人間は、つねに身贔屓(みびいき)で考え行動しています。それは、表現を変えると、自分の置かれている現在地に目がくらんでいるからです。人に腹を立てていたら、私も腹を立てられて暮らしている存在なんだとは思いもしません。

以前、ホームページで紹介しましたが、昔、童謡詩人・金子みすゞさんの墓地に数回、参拝したことがありました。山口県仙崎にある浄土真宗・遍照寺の山門前の掲示板に、「嫌いな人などどこにもいない 嫌いだと思う私がいるだけ」と記された一文に、ハットさせられました。人間は大抵は、人に腹を立てて眠れないことはあっても、自分に腹を立てて眠れないというは少ないのです。好きだと思っていた人が、嫌いになったり、嫌いだった人が好きになったりすることだってあります。

 相田みつをさんの詩を紹介します。

  アノネ どんな車よりもね 構造が複雑でね

  運転がむずかしい車はね じぶんという名の この車なんだよ

  そして 一生の運転手はじぶん

 昔、車にカーナビが搭載されていなかった時代、見知らぬ土地に行くときは地図を調べ調べして目的地へ到着しました。今は、カーナビやスマホを検索すると目的地へ誘導してくれます。高速を利用するか、地道を走行するか、どの道を選ぶか、走行路が選べます。緻密な情報機器を開発したのは人間様なのに、その人間様の生き方って、昔から全然進歩していないって思われませんか。私の考え方は間違っていないか、センターラインをオーバーして走行しているのではないかとなどと、つねに検索して生きることからは離れた人生走行をしてはいませんか。

 先月、私が購読している新聞に、「身近に感じる恐怖は?」のランキング表が掲載されていて目を奪われました。そのランキング表をご参考に抜粋して記します。

① 病気・体の異変1367票 ②災害1295票 ③自分の年齢や老い1197票 ➃人間1124

票 ⑤戦争やテロ923票 ⑥事故 ⑬犯罪 ⑯人の評価・評判 ⑲財布やスマホをなくす ⑳ゴキブリやクモなどの虫‥…。

 この調査では、戦争よりも「人間」が上位なんです。「人間」の内容説明欄には、「裏切り、暴力、略奪、悪意、憎悪、いじめ、差別」と書かれています。人生走行の安全運転は至難なことがよくわかります。

 豊かな人生を、充実した人生を走行したいと思ったときは、つねに視点を変える走行を脳に入力するようにこころころがけることが大切なことではないでしょうか。脱輪走行しないように。

 安全走行の要は、相田みつをさんの詩で紹介します。実践はたとえ難しくても、思い続けるということが一歩前進になります。実践をこころがけることは至難なことですから実践しましょうなんては決してお薦めしません。気に入った言葉や心に響く言葉にあったときは、その言葉をメモします。トイレや車の数か所に貼って眺めています。完全に暗記できたら取り外して捨てています。

   ただいるだけで

  あなたがそこに ただいるだけで

  その場の空気が あかるくなる

  あなたがそこに ただいるだけで

  みんなのこころが やすらぐ

  そんなあなたに

  わたしになりたい

 ふとしたときに、こんな言葉がアッタナァと思い出せれば、それでいいのです。

次回は、7 月5日頃に送信します。仏教の視点から「人間」の恐怖について記してみたいと思っています。スローライフ、楽しい人生ドライブでお過ごしください。

白鶴山 善立寺

兵庫県北部但馬の地にある善立寺は、全国でも珍しい数珠掛け桜で有名なお寺です。コウノトリも舞い降りる山と田園に囲まれた地にあります。

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