善立寺ホームページ 5分間法話 R⑪ R5.9.20日更新
「しあわせって」なんだろう―その➃
前回まで三回にわたって「しあわせって」なんだろう、ということについてお届けしてきました。今回はその最終回です。このことについては、幸いなことに、本願寺の
専如(せんにょ)門主である大谷光淳師が第25代の就任を祝う伝統奉告法要(平成28年)の際、全国の門信徒に向けご親教(法話)を述べられましたが、「苦悩の人生から抜け出す救い」について、わかりやすくお話しをされていますので、最初にその内容を抜粋してお届けします。
ご熟読いただければ幸いです。
念仏者の生き方――大切な「少欲知足」「和顔愛語」の実践
仏教は今から約2500年前、釈尊(お釈迦様)がさとりを開いて仏陀となられたことに始まります。わが国では、仏教はもともと仏法と呼ばれていました。ここでいう法とは、この世界と私たち人間のありままの真実ということであり、これは時間と場所を超えた普遍的な真実です。この真実を見抜き、目覚めた人を仏陀といい、苦悩を超えて生きていく道を教えてくれるのが仏教です。
仏教では、この世界と私たちのありのままの姿を「諸行無常」と「縁起」という言葉で表します。「諸行無常」とは、この世界のすべての物事は一瞬もとどまることなく移り変わっているということであり、「縁起」とは、その一瞬ごとにすべての物事は、原因や条件が互いに関わりあって存在しているという真実です。したがって、そのような世界のあり方の中には、固定した変化しないという私というものは存在しません。
しかし、私たちはこのありのままの真実に気づかず、自分というものを固定した実体と考え、欲望の赴くままに自分にとって損か得か、好きか嫌いかなど、常に自己中心の心で物事を捉えています。その結果、自分の思い通りにならないことで苦しんだり、争いを起こしたりして、苦悩の人生から一歩たりも自由になれないのです。このように真実に背いた自己中心性を仏教では無明(むみょう)煩悩といい、この煩悩が私たち迷いの世界に繋ぎ止める原因となるのです。中でも代表的な煩悩は、むさほり・いかり・おろかさの三つで、これを三毒の煩悩といいます。
親鸞聖人も煩悩を克服し、さとりを得るために比叡山で20年にわたりご修行に励まれました。しかし、どれほど修行に励もうとも、自らの力では断ち切れない煩悩の深さを自覚され、ついに比叡山を下り、法然上人のお導きによって阿弥陀如来のはたらきに出遇われました。阿弥陀如来とは、悩み苦しむすべてのものをそのまま救い、さとりの世界に導こうと願われ、その願い通りにはらたき続けてくださっている仏さまです。この願いを、本願といいます。我執(がしゅう)我欲の世界に迷い込み、ここから抜け出せない私、そのままの姿で救うとはたらき続けていてくださる阿弥陀如来のご本願ほど、有難いお慈悲はありません。しかし、今ここで救いの中にありながらも、そのお慈悲ひとすじにお任せできない、喜べない私の愚かさ、煩悩の深さに悲歎せざるを得ません。
私たちは阿弥陀如来のご本願を聞かせていただくことで、自分本位にしか生きられない無明の存在であることに気づかされ、できる限り身を慎み、言葉を慎んで、少しずつでも煩悩を克服する生き方へとつくり変えられていくのです。それは、例えば、自分自身のあり方としては、欲を少なくして足ることを知る「少欲知足」(しょうよくちそく)であり、他者に対しては、穏やかな顔と優しい言葉で接する「和顔愛語」(わげんあいご)という生き方です。たとえ、それらが仏様の真似事といわれようとも、ありのままの真実に教えられ導かれて、そのように志していきる人間に育てられるのです。このことを親鸞聖人は門弟に宛てたお手紙で、「(あなた方は)今、すべての人びとを救おうとする阿弥陀如来のお心をお聞きし、愚かなる無明の酔いも次第にさめ、むさぼり・いかり・おろかさという三つの毒も少しづつ好まぬようになり、阿弥陀如来の薬をつねに好む身となっておられるのです」とお示しになられています。(以上、ご門主の法話の抜粋)
人間が抱えている煩悩については、これまで、どんな高い山よりも高く、どんなに深い海よりも深いと申してきました。多くの宗派では、人間が抱え持っている煩悩は数字で表すと「百八・108」(除夜の鐘は108撞き、煩悩を消します)あると言われています。夢や望み、欲望が深ければ深いほど、叶えられ、手に入れることができるものは少なくなり、幸せ感や成就感は少なくなります。そのことを次に方程式で表してみます。
人の幸せ感は、一般的には、▢・☆印で表すことができると思います。欲望・願いごとについて、叶えられることの数が多ければ多いほど、幸せ感が深まり、充足度が低くなればなるほど不幸せ感が増加するでしょう。
幸せ感を増やす智慧ある生き方があります。次の方程式で生活することです。
多くの欲に捉われて生きている姿に気付き、欲望を減らし、同時に多くの物に恵まれ、多くの人々に支えられていることに気づく、つまり足ることに気づく人が、幸せ感に包まれながら暮らすことができると思っています。
次回は、12月10日「和顔愛語」についてお話しします。
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