善立寺ホームペー ジ 5分間法話 R③ R4年.4.15日更新)
前回に引き続き、小林一茶の信仰心あふれる句を中心に紹介します。
三大俳人の一人、与謝蕪村が詠んだ「菜の花や月は東に日は西に」、松尾芭蕉の
「荒海や佐渡によことう天河」、一茶の「名月を取ってくれろと泣く子かな」などの
句は、作者の生い立ちとか思想などは知らなくても、味わうのは難しくないでしょ
う。しかし、蕪村が画家だとわかれば、色彩感にあふれる句であると分かり、芭蕉
の句は、奥の細道の道中、新潟県・出雲崎で詠んだ句だと分かれば、佐渡が遠望で
きる場所に立って詠んだ芭蕉の心境に近づくことができるでしょう。しかし、信仰
心を詠んだ句を味わうのは容易なことではありません。
浄土真宗の教えは、家内安全や無病・息災、合格祈願や商売繁盛など自己の欲望
を叶えようとして仏を拝むことは排除しています。阿弥陀如来さまの教えに導かれ
て自身の苦悩・煩悩の世界から抜け出して救われることができるという道が説かれ
ているのが浄土真宗の「他力本願」の教えだからです。「仏教」は、「仏様の教え」であ
って、教えに導かれると、この私が「仏に成れる教え」です。そうした教えについての
理解がないと、一茶の句の味わいは困難でしょう。しかし、幸いにも、一茶はメモ
魔と称してもよいほどに、『おらが春』『父の終焉日記』『七番日記』などの著書を遺
し、作品の中で俳句を詠んだ心情や経緯を克明に記しているので、多くの句につい
ての理解を深めることができるのです。
一茶は越後の国の国境に近い豪雪地帯として知られる信濃の国・柏原に生まれ育
ちました。両親は浄土真宗の信仰心篤く、地区のほとんどの家が浄土真宗の門徒で
した。信仰心の篤い両親や土地の人たちの日常が一茶の生い立ちに大きな影響を与
えたと思われます。また、継母に虐げられた少年期を送り、継母との確執が深く、
父親は見るに見かねて一茶を江戸奉公に出るよう進言し、一茶は15歳のとき、家
を追われるように出奔したのであって、そういう生い立ちも知っておく必要があり
ましょう。
※ 一茶52歳で結婚。妻・きくは28歳。親子ほどの歳の差であった。
〇 50歳 亡き母や海見るたびに見るたびに 実母・くには一茶3歳のとき死亡
一茶には母親の記憶はありません。母亡きあと祖母・かなから愛情をいっぱいに
受けて育ちます。8歳の年、父は、はつと再婚。弟が生まれてから継母からの虐待
を受ける日々が始まります。影となり日向となって助けてくれたのは祖母でした。
その祖母は14歳の年に亡くなります。「恃みに思うは祖母ひとり。~危難をのがれ
ることができたのだ。全く地獄に堕ちた餓鬼が慈悲深い地蔵様に助けられたような
もの」と記しています。このころ、一茶は上総の国を旅していますから、「海」は
上総(千葉県)・富津であろうとされています。ゆったりとした広大な海を見ると、
母の愛はこの海のようなものに違いないと思い、母を想うことで辛い日々から抜け
出すことができ、つかの間の安らぎを感じていたのでしょう。
〇 涼しさや弥陀成仏のこのかたは
「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり」―親鸞聖人の著『讃阿弥陀仏偈和讃』
の冒頭の句を引用した句です。「和讃」とは、和文で書かれた阿弥陀如来さまを讃
える歌です。阿弥陀さまは「法蔵菩薩」として修業中に「五劫」というとてつもな
く長い時間をかけて修行し「思唯」(しゆい)されて悟りを開かれました。一茶は、
その悟られた教えに照らされて、苦悩の生活の中でも、阿弥陀様に見守られて生き
る喜びのさわやかな心情を「涼しさ」と詠んだのであります。
〇 54歳 痩せ蛙まけるな一茶是にあり 長男・千太郎 生後28日で死亡
〇 57歳 這え笑え二つになるぞ今朝からは 長女・さと2歳の句
さとは一茶にとっては二人目の子です。年齢から見ると祖父といってよい年齢で授
かった娘です。元旦を迎えて2歳になった子を前にして詠みました。「這え笑え」は命
令調の句です。一茶はこのとき病んでいました。自分の老い先を考え(江戸時代の平均
年齢は44歳前後でした)ながら、娘の無事の成長を必死の願いで詠んだ心情が、命令調
の語から読み取れます。3年前に生後間もない長男を亡くした悲しみをずっと抱いてい
たからでもあります。
〇 57歳 露の世は露の世ながらさりながら 長女・さと2歳 天然痘で死亡
人の命の儚さは「露」によく譬えられます。本願寺の第8代目の蓮如上人がご門徒の
方に宛てて書かれたお手紙『ご文章』の中の有名な「白骨の章」では、「われや先、人
や先、今日とも知らず明日とも知らず、おくれさきだつ人は・もとのしずくすえの露よ
りもしげしと言えり」と記されています。一茶はだれもが露のような命を抱えて生きて
いることは百も承知していて『おらが春』の中では、「楽しみ極まりて愁い起きるは、
うき世のならい」とさえ書いているのです。秀吉の辞世の句「露と落ち露と消えにし我
が身かな浪速の事は夢のまた夢」もよく知られています。人は皆、日が昇ればたちまち
に消えてしまう露のような命を抱えている身であるとは、身内の不幸でも味っていて、
世の道理としても分かり切ってはいるけれども、まさか、わが娘が自分に先立って逝くとは、
受け止め難くて悲痛な思いが「さりながら」という下の句に込められています。
〇 57歳 ともかくもあなたまかせの歳の暮れ 年末 12月29日の句
句中の「あなた」は、阿弥陀如来さまのことです。浄土真宗では、阿弥陀如来さまを
敬い親しみを込めて「あなたさま」とか「おやさま」とも呼ぶのです。娘のさとは、こ
の年の2月に亡くなっています。自分の力の及ばないところで底知れぬ悲しさを味わっ
た年を振り返って、深く悲しいことがあったけれど、「何はともあれ、あなた様の教え
に導かれて年の暮れを過ごしましょう。」と詠みました。
〇 58歳 弥陀仏をたのみに明けて今朝の雪
「たのむ」は、一般的には、あることをしいほしいと相手にお願いする、依頼すると
という意です。浄土真宗においては「たのむ」は、欲望を願う意はありません。阿弥陀
さまのみ教えを「一心に信じ、疑わず、頼りにして」という意です。「あなたまかせ」
に通じる言葉です。「白骨の章」の末尾には、「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて念仏申
すべきなり」と記されています。
〇 58歳 片乳を握りながらや初笑い
10月に次男・石太郎誕生。翌年1月に母の背中で窒息死しました。妻・きくは働き
ものでした。しかし、妻の育児について、一茶は大きな不安を抱いていたことが日記
に記るされています。「決して背負ってはならぬ」と、厳命していましたが、きくは従
わず、石太郎は背負われていて窒息死しました。「石太郎」と名付けた「石」について、
「石のような頑丈な子になってほしいと名付けたのに」と怒り嘆いています。〇「悪い
夢のみ当たりけり鳴く烏」 〇 「もう一度目を開け雑煮膳」 〇「陽炎や目につきまとふ笑い顔」と、悲しみにくれる数句を詠んでいます。
※ 61歳 妻きく37歳で死亡
※ 62歳 ゆきと再婚。3カ月足らずで離婚。前年に生まれた三男・金三郎死亡。
〇 65歳 年もはや穴かしこなり如来様
「穴」は「あな」で感嘆詞「ああ」という意味。「かしこ」は「かしこし」の語幹
で「賢」。漢字で表記すると「あなかしこ=穴賢」です。主として女性が手紙の文末
によく使う語で、「恐れ多い」「もつたいない」の意です。浄土真宗では、法話のあと
に必ず拝読するお手紙があります。蓮如上人が記されたお手紙で「ご文章」と名付け
られています。一茶は、「今年もはや年の暮れを迎えようとしている。愚か者の私が
阿弥陀様の慈悲の光明に照らされ年を重ねることになった。有難くもつたいないこと
でございます」と、感謝の心を読んだのである。
一茶は、もうこの頃は、自分の死期を予期していたように思われます。
〇 65歳 焼け土のかほりや蚤騒ぐ
6月、柏原の大火で母家は類焼。焼け残った土蔵の中で暮らすことになりました。
「蚤騒ぐ」は焼け土の余熱でうごめく蚤を感じたのでしょう。どん底の暮らしの中で
も、持ち味の剽軽性や諧謔性が伺える句です。
※ 11月19日死亡
※ 死亡の翌年、3度目の妻・やをが女児を出産しています。
※ 一茶の句で好きな句は 〇「雪解けて村いっぱいの子どもかな」 〇「大根引き大根で道を教えけり」 です。暗さのない明るい句です。エールを送りたくなります。
※ 2回続けて紹介した一茶の句はこれで終了します。 あなかしこ あなかしこ
□ 次回は6月1日に更新予定です。
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